ストアマネージャー 水澤耕一
こんにちは。このページをご覧いただいている皆さんありがとうございます。
店主のご挨拶をさせていただきます。
東京の下町育ちの自転車少年は中学生になる頃、はじめてのサイクリングで目覚めました。
普段から下町の街角をハイスピードで走り回り近所からは暴走するガキンチョとして常に事故を心配?されておりましたが一念発起して
浅草~横浜まで自転車で行ってみよう!と
当時(1970年代後半)はまだまだ交通戦争真っ只中で車道を走る自転車なんぞ虫けらのように扱われておりましたがナビもスマホも無い時代なので地図とにらめっこ。
単純に国道15号線をメインにひたすら南下するルートしかないのですが・・・
決行はなぜかやはり初日の出を見よう!との思いでめちゃくちゃ寒い元旦早朝。
父親の黄色い丸石エンペラー号を借り、当時のサイスポを参考にサイクリスト風服装を整えて一端の風体で山下公園まで往復。確か途中で日の出してしまい(笑)ましたが、自分の脚でたどり着けるこれまでに無い充ち足りた時間を過ごせたことが今日までの自転車熱に繋がる第一歩でした。
そんなサイクリスト少年は次のステージとしてレースにも興味が湧き、時は1980年代。
そうです、きっかけはNHK放送のツールドフランス特番です。今ミドルエイジ(?)の多くの自転車ファンの方々が魅了された世界最大の自転車レース!フランス全土を一周するという壮大なスケール感にワクワク以外ありません。中心はご存じスーパースターのベルナールイノー。
当時はノーヘルで歯を食いしばりひたすら続くアルプスの激坂をあり得ないスピードで駆け上がる信じられない光景を目にして自分は将来ここに行くしかない!と心に誓ったものでした。
中学、高校と自転車部の無い下町学校なので剣道(四段です)や陸上競技(大学までやってた)でベースを作り、いよいよ自転車レース!となるもどうしたら良いかわからず・・・
足立区の殿村さん(チームマリアローザ)を訪れて練習に参加。夜な夜な大勢で千住から皇居を周回して戻るというセンセーショナルなライド。人生初の交通事故を経験するなど着々と自転車経験を積み、いざ下町の老舗“横尾双輪館”を訪れました。
自転車レースって登録?未登録??
なんのこっちゃですが、当時はアマチュアレースが2分化されていて
オリンピックに繋がるレース活動が登録レース(アマチュア)。単にロードレースが好きで参加費も参加する敷居も低い未登録レースでした。
登録レースは高校大学、実業団といわば自転車競技の王道としたら未登録は趣味人の集まりみたいな感覚でその中でも異色な人たちが登録レースに下剋上(笑)する流れが誕生し、その始まりの一つがクラブチーム「サーティワン」のチャレンジでした。
自転車部でも実業団でもないクラブチームが登録レースに参加するという今では考えられなかった強烈な違和感の中でロードやトラックでも着々と成果を上げていく、そんなチャレンジに参加したのが高校三年生でした。
サーティワンから実業団へ
東京下町のサイクリストの共通の悩みはこれに尽きます。
「走れる場所まで遠くて、到着したらもう疲れちゃってるんだよね」
そう思った方も多いのではないでしょうか。
信号の多さやあまりの多くの車で運動効果云々よりまず安全!
長時間ペダリングして今なら酸素摂取量上げて、とかそんな走りはなかなかできず
当然信号間のダッシュやスプリントからアネロビックトレーニングの宝庫と化す都内サイクリング。正常進化するとトラック選手です
高校時代に実業団トラックレースで優勝し、実業団なのだから働かなくちゃ、と
焦ってアルバイト先を申請したことが思い出されます。
そんなこんなで大学に入学するも(インカレ常勝大学)競技の実績がそれほど無いので自転車部には所属できず、陸上部に(笑)
ただ実業団大会で着実に実績を上げ、とうとう4年生時にナショナルチーム入りを果たしました。その中で全日本選手権で2位。1990年の日本で行われた世界選手権、中国のアジア大会日本代表に選抜されました。
世界選手権はチームパシュートチームで日本記録、アジア大会ではパシュート金メダル。
日本鋪道(NIPPO)
1987年から当時のパシュートエースかつ全日本ロードチャンプを中心に発足したNIPPOは2期目で全日本チャンプを更に補強してパワーアップ、その流れでソウル五輪メンバーらと共にメンバー入り。同じ時期に加入した選手では今もNIPPOのチーフディレクタを務める大門さんがおります。
1993年シーズンまで国内レースは元よりヨーロッパのレースに至る数多くのレースを走りました。
・ツールド北海道総合ポイント賞2位やステージ優勝多数
・全日本選手権や国内全国大会の優勝
・セッティマナベルガマスカ(現トロフィオアルフレッドビンンダ)はじめ多くのUCIレースに参加
在スイス(ルガーノ)、イタリア(マロスティカ)で転戦、転戦でヨーロッパ各地へ。
当時同時期には後のMAPEIで日本チャンピオンとして活躍した阿部さんらと共にステージレースを走ったり、近年自転車インフルエンサーとしても有名な三船さんがベルギーで活躍していた同時期だったりと話題は尽きませんが先鞭をつけていただいた多くの先輩自転車選手の後を継ぐべく使命感に燃えて走っていたものでした・・・
しかしカテゴリー上位のレースでは全く歯が立たず限界が見えたのもこの時期でした。
オリンピックには出場のご縁は無かったのですがバルセロナ大会は一応補欠の身でした。
日本鋪道(NIPPO)を退団
チャレンジの年齢的なことや将来的な展望からの退団で国内戦や個人としての目標を目指してINOAC-DEKIにチームを替え、福島県いわき市財政部公営競技事務所に入庁し。福島国体を優勝させるべくいわゆる国体ジプシー生活へ。
もちろん仕事もすることから当事者としては真剣に考えていたものの大人の事情は弱い立場を簡単に翻弄し、福島県教育庁に入庁し、教育畑に入ります。
福島国体は個人、団体共に優勝し、個人は特に国体(今は国民スポーツ大会通称国スポ)初代のケーリン競技チャンピオン。
2000年にはそれより少し前から取り組んでいた障がい者スポーツ(自転車競技タンデム)で視覚障がいの選手と二人乗りの自転車競技(タンデム)でシドニーパラリンピックに出場し、金、銀メダル獲得と世界記録樹立を達成しました。
自転車競技をやりすぎたせいかこの仕事より自転車業界!ということもあり
東京に戻りショップスタッフ(POSITIVO)、総合スポーツ店の自転車部門マネージャーを経てきました。
TREK JAPAN
2018年から2023年まで所属し、セールスとして昭島、宇都宮、東京青山店を経験。
国内売り上げは常に上位を記録し、最終年もトップ成績で退社。
メーカー直営ならではの商品知識の豊富さやこれまでの職歴からわかりやすいセールストークを心がけて新たなスポーツ自転車の楽しみ方や可能性を求めて今回気鋭のbikeportの力を借りてTREKの新しい魅力をご提案させていただきます。
「自転車買うならどこでも同じではありません!」を信条に我々でしか出来ないお客様へのスポーツ自転車との出会いをお手伝いさせてください!